N-Wave VOL.116
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岐阜県美濃市 美濃和紙の里会館と澤村正氏の工房を訪ねて 7すよ。日野 天井の照明に貼ってあるんですね。澤村 電気が入って。びっくりした。この照明には実は釘が1本も使ってないのです。日野 こういうのを考えてくれる人がいるんですね。和紙を活かして。澤村 障子紙もね。これ2枚ぐらいの大きさの、2メートルくらいの大きさ。日野 素晴らしい。日本にはすごい所があるんですね。澤村 やる気、信念が無ければ本美濃紙は漉けない。日野 本美濃紙っていうのは、誰でも漉けるものではないとお聞きしましたが、資格がいるんですか。澤村 資格がいるというよりも、やる気がある者じゃなけりゃ駄目だね。どの道でもそうだけど、やる気があって、これで通すという信念のある者じゃないと。料理もそうでしょ。私がつくった料理は食えるもんじゃないし、おかあちゃんがつくった料理は愛情があるし、料理人がつくったら上品さがあるしね。日野 和紙の上品さはどこからくるのですか。澤村 心から。日野 心から。漉き手の心から。澤村 料理でも母親のみそ汁がいちばん旨いっていうでしょ。あれどうしてか知ってる。日野 家族を愛して作ってくれるから。澤村 そういうことなんです。愛情がこもってるから。素材がいいことよりも、愛情がこもってる味なんや。だけど料亭では上品なまでだ。同じものが。あれ全部、苦心してる。色を出す瞬間から、1時間もつ味やとか。ものすごい計算してある。最初は知識、それを体得して心で漉く。君が1枚の紙にするんだよということで、まず頭で勉強して、実際に自分の手でやってみると分かる。ちりとりひとつとっても昔は寒風にさらされて、あかぎれが切れるって、あんなことは当たり前、手がちぢんでしまうのだって、あんなことは当たり前でしょ。けれど、そこで、この仕事をやることによって、冷たい嫌なことをやるのだけど、これが、出来上がったときにはきれいな紙になるので、そのことを喜んでちりとりをやらにゃいかんよって教える。そうすると自分のやってる仕事が、先が見えるでしょ。だから、やりなさい。機械化による手漉き職人の減少日野 澤村さんの紙は、普通の紙と違うんでしょ。澤村 同じです。昔はみな同じように障子紙を漉いてた。障子紙を漉く人が、板で干す人ね。天日干しと鉄板干しとあるんですよ。鉄板干しの人は新しい紙だけど、昔からやってる人はみんな板干し。これが難しいんですよね。紙を漉いてる中で障子紙を漉く人が、一番上手な人だってことを言われて。うちも障子紙をずっと漉いてきた。もっとも親父も紙を漉くのが好きで一生懸命やってきたんですよ。ところが機械の発達によって、昭和20年、牧谷地区に700戸あった手漉き和紙に従事している工房が、昭和40年には70戸ぐらいに減ってしまったんですよ。その代わりに機械がずっと伸びてきた。ものすごく伸びたんですよ。機械は1日に私らの5年分くらいの紙を漉きあげるんだから。しかもそれで値段が3分の2ぐらい。新しい紙を一生懸命研究して、3年か4年で「よし、これなら売れるな」と思っても機械が全部真似する。そして大量生産やるでしょ。それをどうすることもできない。一生懸命がんばってやってるうちに、これはうちはとてもじゃないけど赤字になってしまうからと昭和40年ごろを境に多くが廃業し転職してしまった。その時分は既製品がはやり、半数の人は既製品をやったね。同じ金が入ってくるんやったら、紙を漉いてる仕事よりも、ミシンは踏むだけやから身体が楽でしょう。あとはサラリーマンになったんです。それでも続けた日野 皆さんは、作った和紙をどこかへ、直接販売してるんですか。澤村 親父のころには、親方制度っていうのがあって、原料を支給されて製品を納める。それはいいことやね。ところが原料費は1割高く支払って、製品は1割安く買い栃の木の一枚板澤村 正さんの工房和紙を乾かす乾燥室。「板干し」といって栃の木の一枚板に張り付けて乾燥させる。100年以上昔の板であり、現在ではこのように大きな一枚板はなかなか手に入らないのだという。この工房に毎日立ち、紙を漉いている。

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