N-Wave VOL.116
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9時空を超えて  日本という国は、鉄砲の最新技術を輸入していながら、それを惜し気もなく捨て去る経験をもつ、世界でも比類なき国だった。 そう主張する本が、今から四〇年ほども前にアメリカで出版されていた。ところがそのことを知る人間が、今日どれほどいるだろうか。 話題の人物が米国人のノエル・ペリン氏。ケンブリッジ大学を卒業し、ダートマス大学の英文学の教授をしていた。その問題提起の書物というのが、何と 『鉄砲を捨てた日本人─日本史に学ぶ軍縮』 (川勝平太訳、中公文庫、原著は一九七九年刊)ちなみに、訳者の川勝氏はこの国の比較経済思想史および文明史をリードする専門家であり、現在は静岡県知事をしている。理論と実践にかかわる鋭利な二刀流の使い手として知られる。 ペリン氏の問題提起とはどういうものか。 時代は信長、秀吉、家康の戦国時代にさかのぼる。ポルトガル人によって鉄砲が種子島に伝えられたのが天文十二年(一五四三)。信長はいち早く鉄砲隊をつくって実戦に利用し、元亀元年の姉川合戦では家康の参戦をえて成功している。 ついで天正三年(一五七五)の長篠合戦では、信長、家康の連合軍が鉄砲の威力をみせつけて、武田勝頼の騎馬軍団を撃破している。 ところが、秀吉の時代になって舞台が一変する。「刀狩令」が出され、百姓たちの手から刀、脇差とともに槍と鉄砲が没収されたからだった。 兵農分離の政策である。統一政権にたいする反抗の芽をつみとるためだったが、それがつぎの家康の時代になって制度化され、いっそう強化される。 九州で発生した島原の乱を期に、鉄砲の製造と使用が幕府の管理下におかれ、やがて戦闘のための武器としてはほとんど破棄されるにいたったからである。 なぜ、そんなことができたのか。さきのペリン氏はこの疑問に答えて、三つの理由をあげている。 第一、当時この国における武士の人口はほぼ二〇〇万(人口の8%)で、ヨーロッパの場合(0.山折哲雄鉄砲嫌いの三島由紀夫時空を超えて 第46回

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